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釣針事典
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釣り針製造の初発

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初発の人々

古くから播州鍛冶、それに江戸時代後期からの行商人の活躍など、播州針製造の条件は揃った。しかし、播州において最初に釣り針の製造をはじめた人については、その一人を特定するとこは困難である。現在、この播州針についての書物は数点あり、そこに論述されている初発の人は複数にものぼっているからである。

その一つは、『播州特産金物発達史』であり、次のように述べられている。

「天保元年、加東郡下久米村の庄屋小寺彦兵衛という人が年三十歳の時土佐国へ行き、鍛冶屋高助方で魚釣針の製造を研究して、嘉永四年に故郷の下久米村に帰って製造を始めたのが、播州に於ける釣針製造の濫触(はじまり)であります」

「天保年間に黒田庄村岡で定右衛門と云う人が釣針の製造を開始し、続いて大門の佐兵衛、下比延の新兵衛、喜多村の清右衛門も製造を始めた」

その二つは『兵庫県下釣針およびテグス製造販売聞書』である。著者は本書の中で、釣り針製造の初発を次のように聞き書き示している。

「天保年間米田村久米の人小寺彦兵衛が、土佐に至って苦心の末その製法を習得して自村に伝えたということになっているが、岸本福太郎氏によれば、下東条村池田の人源右衛門が開祖だとのことである。彦兵衛も源右衛門について習い、後に京都へ修行に行ったというのが、岸本翁の説である」

すなわち加東郡下久米村の彦兵衛とする説、多可郡黒田庄岡村の定右衛門とする説と加東郡池田村の源右衛門とする説の三説があるがこれらの諸説には、そのいずれにも的確なる資料の裏づけを欠く。しかも先にも述べたように多可郡比延村の行商人中島卯兵衛の「文政十年大福万覚帳」には一八二七年にはすでにこの播州ですでに釣針の製造が始まっていたことが見えている。また、同じそれや万屋清右衛門の「天保十五年当座帳」からは常右衛門という釣り針職人がいたであろうと併せて伺い知り得ることが出来る。

しかし若干の疑問点もなくはない。だが、そうした疑問点を差し引いたとしても、始めに紹介した三説よりは古く、しかも、天保以前に多可郡において釣り針の製造が始まっていたことだけは、ここに疑いを容れない事実のようである。そしてその初発の人をここに挙げることもまた困難である。強いていえば「播州針は古くからの播州鍛冶と江戸時代後期における行商人の活躍などにより、雑草のように自然発生的に勃興した」、ともいうべきであるかもしれない。





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