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釣針事典
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播州針の起こり
行商
 中島屋卯兵衛
 
万屋清右衛門
 藤屋金兵衛
 木屋五兵衛
 飛田政七
釣り針製造の初発

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行  商

農閑行商

 明和八年(一七七一)の『多可郡喜多村明細帳』(黒田庄町所有)に次のように見えている。「例年、正月十日頃より二月彼岸前後まで江戸、夏□□□近国へ売りに出候者、当村に四五人ばかり御座候」そして、これが、黒田庄地方における行商史料の初見である。これによると、この明和年間には、既に正月過ぎと夏の農閑期には、農業の余業として江戸や近国に行商していることが判る。

 続く天保一三年(一八四二)には、同じ多可郡の田高村で『諸商売人書上帳』が作られており、黒田庄の行商人の実態を、比較的具体的に把握できる。すなわち、それによると、行商品目としては木綿・種物・組み紐・荒物・絞り木綿、それに針などであり、また行商地域は大半が播磨国内であるが、裏日本の因州、大和の吉野郷、四国讃岐の丸亀にまでおよんでいる者もある。なお、ここで『黒田庄町史』はここに見える針は田高で作られていた"釣針"との見方を取っている。

 ところで多可郡がかくも行商が盛んであったのは、一口に行っても貧農のせいである。この貧農は、ここ喜多村ばかりはなく、加古川流域に広がる農村全般に、等しく共通していた。それゆえに田高、船町、比延、蒲江などの各村には、農閑稼ぎとして行商人が多く出ていた。

専業行商

 
度重なる農閑行商からしだに得意先も増え、それによって生活のめどが立ってくると、いつしかそれを専業とするものも出てきた。つまり、専業行商人の出現である。この専業行商人たちは、はじめこそタバコ入れ・胸当て。内掛け・手覆いなどの衣類や雑貨を持ち歩いていたが、やがてかさ張らず、しかも実入りの多い「釣り針」を持ち歩くようになった。現在、そうした釣り針行商人を確認できるのは、比延村三名、蒲江村一名である。すなわち中島屋卯兵衛、万屋清右衛門、藤屋金兵衛、木屋五兵衛である。また、少し遅れて飛田政七もいる。それでは、こうした専業行商人たちを次の項で目を通していきたい。


中島屋卯兵衛
万屋清右衛門
藤屋金兵衛
木屋五兵衛
飛田政七





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