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播州針の起こり
寛徳2年から自暦3年(1045〜1067)にかけて藤原明衡が著した『新猿楽記』に「播磨針」が見えている。
この播磨針とは縫い針のことであり、既に平安時代、播州に縫い針の生産が始まり、しかもその縫い針を国産の名物としていたことが伺われる。
この縫い針は、播州の一体どこで作られていたかは、これまで適切な史料を欠く。
しかしこの平安時代には、奈良時代に始まったとされる荘園制度がピークに達し、ついに「荘園整備令」(寛徳2年)を発せられ、それ以後の荘園は固くこれを禁止された年代である。
そして播州には、たとえば黒田庄・比延庄・津万庄・松井庄と言ったように、京都貴族の荘園地だったところが実に多い。
恐らく播磨針は、こうした荘園地で、荘園の地主である京都貴族の指図によって作られていたものと想像される。
それはなぜかと言えば、京都貴族たちがきらびやかで優雅な衣装を日常に身に纏うためには、多数の布地とともに縫い針を必要としたであろうからである。
その証拠に、やがて京都には公家の内職から始まったと伝えられる「みすや針」が誕生している。
さて、播州針のルーツは、やはり京都ではないかと考える。
それは、先程記したことやまた、ここ播州が京都に近く、宮大工や播州織など播州特産の勃興に見るように、ここ播州は何かにつけて京技術の吸収に努める気風が、古くから非常に旺盛であったこと。
また、多可郡比延村の行商人たちが、少なくとも中島卯兵衛の『万覚帳』に見える文政年間以降、京都の針所から各種釣り針を仕入れ、京都釣り針商人との間には深い交流が存在していたこと。
更に、加東郡池田村の源右衛門が釣り針製造技術を京都で習得したなどの諸点から考え、ほぼ間違いないものと思われるからである。
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