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釣針事典
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播州針の起こり
行商
 中島屋卯兵衛
 万屋清右衛門
 藤屋金兵衛
 木屋五兵衛
 飛田政七
釣り針製造の初発

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中島屋卯兵衛

 卯兵衛は多可郡比延村の人である。名は利八。同家に伝わる最も古い当座帳には『丁亥文政十年正月吉日大福万覚帳』とあるから、すでに同年には行商をしていたものであることが伺われる。卯兵衛はこの『当座帳』によるとよると、椎茸・タバコ入れ・青海苔・羽織り・風呂敷・縫い針・釣り針などを持ち、上比延、西脇、大垣内、田高、社、中畑、大門といった村々を売り歩いている。

 やがて、天保三年(一八三二)頃に、大阪に店を構え、「岡田屋利八」を名乗る。大阪に拠点を構えたことにより、紀州路の奥深くにまで広がった。また、持ち歩く品物も、軽くて利益の大きい釣り針類に集中していた。この釣り針類には、あぶみ針、磯丸、ちぬなどといった鉄針のほかに、孔雀・花丸・蚊頭などの毛鉤類もある。

 卯兵衛はこういった釣り針を地元である多可郡福地村の武兵衛、津万井村の文三郎、下比延布口の茂助、それに京堺五条上ルところの針所油屋佐兵衛などから仕入れている。

万屋清右衛門

丹波当座帳 清右衛門も多可郡比延村の人である。同家に伝わる帳簿類の最も初期のものに、新平と栄吉の二人の名があり、新平は文政一〇年(一八二七)、栄吉は天保年間(一八三〇〜四三)でいずれも清右衛門よりも古い。この帳簿類の中で、最初に釣り具類の行商記録が見えるのは、万屋栄吉の『天保十五年当座帳』である。それによると栄吉は同年(一八四四)の二月五日から四月五日までの二ヶ月間、丹波・丹後路を行商している。

 栄吉が持ち歩いた行商品は、剱小蜂・花丸・血丸・並蚊頭・しきし・行田・うなぎ・大蜂といった毛鉤や鉄針類の他に、唐針・糸類(蝋引糸・坪糸・赤糸・絹糸・麻糸)・小帯・タバコ入れ・弁当箱などである。万屋栄吉は、毎年のように丹波、丹後路を回っているが、嘉永二年(一八四九)の『丹波当座帳』からはそれまでの当座帳と全く同じ筆跡でありながら、表紙の署名は万屋清右衛門となっている。恐らくこの嘉永年間に入って、改名したものと思われる。

藤屋金兵衛

 金兵衛は多可郡蒲江村の人である。その遠祖は京都の藤原氏につながる、由緒ある家柄といわれている。天保四年(一八三三)、金兵衛は分家を独立し、「藤屋」を名乗って呉服と反物類の行商を始めた。だが、まもなく、持ち運びが容易な実入りの多い釣り針に変え、屋号も「針屋」と改めた。

宇和島藩町奉行所の釣針卸売免許 同家に伝わる。古文書の中に嘉永三年(一八五〇)に四国宇和島藩町奉行所より下付けされた「釣針卸売免許」がある。それによると、金兵衛は川石浦(愛媛県西宇和郡保内町川之石)の福松を中継所として、伊予一帯を、幅広く行商していたものであることが伺われる。
金兵衛は丹波屋卯兵衛というものからおよそ次のような毛鉤類を仕入れている。

文久元年(一八六一) 黄細あゆ金・土佐蜂・あゆ三段朱・タナゴ・あゆ三ツ掛・極次あゆ
同二年(一八六二) 黄細あゆ金・両徳・あゆ金玉・白金玉トキ・金玉トキ
同三年(一八六三) 黄細あゆ金・あゆ三段朱・あゆ金玉・あゆ朱玉・タナゴ

木屋五兵衛

 五兵衛も多可郡比延村の人である。安政三年(一八五六)に播州織物仲間で組織した「夷子講」に名を連ねているから、織物類の行商から出発したものと思われる。そして後に至って、釣り針に転向したものであろう。同家の帳簿類は既に行方不明になっており、その実態をつかみにくい。だが、明治六年ごろの加東郡下久米村『大塩作平』文書に、「関東筋えは比延木屋五(兵衛)様を御願いして」とあって、その行商圏は遠く関東筋にあったことが伺われているだけである。

飛田(中村屋)政七

 飛田政七もまた多可郡比延村の人である。当初は、同村の釣り針行商人中島屋卯兵衛の荷物もちをしていた。文久末に独立するに当たり、卯兵衛から「中村屋」という屋号を贈られた。
政七の行商圏は、主に東海から関東である。この行商圏をある年は三河路と遠州路を重点的に、またある年は秩父路と武蔵路を重点的といったように、地域によって毎年異なった比重をかけ回っている。従って年により、そのコースや訪問先に若干の疎密が見られている。

 政七の仕入先は、主に毛鉤は京都、テグスは大阪である。すなわち京都は平野屋善六、播磨屋卯兵衛、中村屋佐兵衛、嶋屋惣七などから仕入れており、大阪は住吉屋新次郎、広田屋庄兵衛、新屋喜兵衛から仕入れている。






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