播州毛鉤
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播州毛鉤物語

3 播州毛鉤の発展


風景  こうして始まった播州毛鉤の生産であるが、技術的な改良もしばしば行われた。弘化元年(1844)頃に地針にカエリを付けた「剣」ものが現れ、嘉永5年(1852)頃に焼き入れが導入され、安政6年(1859)には地針の磨きも取り入れられる。


 明治に入り行商による釣り針・毛鉤の販売はその地域を広げ、量的にも大きな増加を見た。 また、明治16年の第1回水産博覧会、23年の第3回内国勧業博覧会を始めとする博覧会に度々出品し受賞者も出す。 しかし、例えば明治40年に長崎で開かれた第2回関西九州府県連合水産共進会では、兵庫県の出品は「一見花かんざし屋の観あり」と言われるほどの毛鉤で埋められたが、石川県の釣り針出品者11名内受賞者7名に対し、兵庫県は出品者26名中受賞者3名という成績で、同会出品の加賀毛鉤が高い評価を得たことと合わせると、播州毛鉤は技術的に劣っていたと考えざるを得ない。 事実大正末から昭和初期にかけ、東京に多量に出荷を見るが、これは価格が非常に安いことで人気を集めたと言われる。 勿論この間技術改良の努力も続けられ、京都や金沢への技術研修の旅に出かける者もあった。 また、高知の四宮琴が播州毛鉤に学んで土佐四宮毛鉤を始めるなどの交流もあった。



風景  第2次世界大戦に入ると鉄線や金箔などの物資の配給割り当てを受けるため組合が結成され、変遷を経て現在へ至っている。


 江戸末期から産地の移動を見ると当初下久米村(現社町)で始められた釣り針の生産は周辺の村にも広がり、毛鉤の生産も同様に散在していたが、現在では漁業用釣り針は南部の東条町を中心に、レジャー用釣り針及び毛鉤は北部の西脇市・黒田庄町を中心にと大きく二分され、いずれも全国生産額の9割以上を産している。





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播州釣針協同組合