播州毛鉤の発祥についてはまだ不明な点もあるが、当所はこの付近の行商人が他産地の針を仕入れて行商に歩いたところに糸口があると考えて良い。
即ち吉田豊作氏蔵『大福万覚帳』によれば、多可郡比延村(現西脇市比延町辺)の行商人中島屋卯兵衛がちぬ針・土佐針・行田針等の他に、花丸・並蚊頭・孔雀筒入れなどの毛鉤を京都堺町五条上ル油屋佐兵衛から購入し付近の村に売り歩いている。
天保15年(1844)の記録では他の者が各種の針や毛鉤を持ち福知山・宮津など丹波路を歩いていた。
更に嘉永年間(1848〜53)になると行商圏も遠く東海道・秩父・上州・甲州にまで広がり、四国の宇和島藩に釣り針卸売り免許を得た者もある。
こうした釣り針の行商活動に加え、当地での釣り針の生産が始まる。
この地の釣り針の生産は、下久米村(現社町)の彦兵衛が嘉永4年(1851)に土佐の技術を学んで始めたとされているが、すでに天保13年(1842)の中島屋卯兵衛の『請取帳』には彼の他の針屋に対しての釣り針代金の支払いがあり、更に、それ以前の文政10年(1827)中島屋卯兵衛『大福万覚帳』に「はりま小ちぬ」の名があることからこの頃には釣り針の生産が開始されていたと見ることが出来る。
さて、毛鉤の生産であるが、前記『天保十三年請取帳』には下比延村(現西脇市比延町辺)の平七が卯兵衛に蚊針を納めた記録が見え、また生田弘之氏蔵萬谷清右衛門『嘉永2年(1849)丹波当座帳』には「北村 はり清様 剣ち三百 黒二百」とあり、現多可郡黒田庄町喜多の針屋清右衛門からカエリのある「千丸」と「黒毛」を購入したことが明らかにされている。
こうした、毛鉤の生産技術を何処から学んだかは明らかではないが、この付近は「京都-亀岡-篠山-社-姫路」という街道近く、また篠山川を下る「篠山-山南-黒田庄-西脇-社」という道の存在があり、徒歩でも京都から2〜3日の距離であることを考えれば、毛鉤生産技術の先進地京都の影響下に始まったと見るのは妥当であろう。
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